おじいは「不可視な(非現実世界いる)存在 の中では、
神様や守護霊よりもご先祖様が(当人に)一番近い存在だ」と言います。
これは、仮に神様への信仰心が篤かったとしてもだそうです。
ちなみに、向こうにいるご先祖様からしたら、
どんな感じで私たちのことを見ているのでしょうか?
そもそも、どんなスタンスなのでしょうか?
そりゃあ、愛と愛情の想いでいつも見守っているよ。
たとえ生前に仲が悪かったとしてもだ。
たとえば、生前に他者への関心や想いを高く持っていた人物だったとしても、
それはあくまでも「主観的」になる。
だが、こちらにくると相手の(遺族の)想いや気持ちまで分かるから、
様々な想い出やエピソードに対して「あ、あの時の息子(娘・家内・孫)は、
そんなことまで考えてくれてたんだ」などと理解が深まるんだ。
だからこそ、まさに「子を思う親の気持ち」になるし、
それが10倍増し、いや100倍増しといっても過言ではない。
だから自分の家族(遺族)への関心が一番高くなる。
よく「生前に未練があると成仏できない」と言う。
わしも生前はそう思っていたが、誰でも成仏するよ。
成仏とは魂が根源意識の世界に戻ることであって霊界に行くわけじゃないし、
魂が行き場を失って彷徨うなんてことはない。
じゃあ、なぜ「生前に未練があると成仏できない」と言うのか?
もしかしたら「成仏しないでもいいから私の傍にいて欲しい」
という希望だってあるかもしれない。
それは(成仏して魂が根源意識に戻る)からこそいつでも傍にいれるんだ。
どういうことかと言うと、魂が意識世界に戻るということは、
その魂エネルギーが森羅万象に普遍的に広がる意識エネルギーにまみれることになる。
分かりやすく言うと、空気中に広がる感じで、
いま目の前の空間には空気があるはずだが、その微粒子に広がっている感じだ。
それくらい傍にいると思ってほしい。
お墓参りであろうが、仏壇で手を合わせようが、歩きながら想おうが、いつも傍にいる。
「生前に未練があると成仏できない」と言うのは、
そのエネルギーを視覚として観れた場合、
あまりにも多くのエネルギーが傍にあるから(観えたから)だろう。
でもそれは成仏できていないのではなく、成仏できているからこそなんだ。
ご先祖様は、人間的な存在としてのイメージ(幽霊的な媒体)で
宙から観ているというわけではなく、満遍なく傍に「在る」。
良い意味で「付きまとっている」とも言えるかな。
さらに、家族愛とは別に、ご先祖様は何をガイドにして当人と繋がるのか?
それは、同じ「血」が流れているからで、
当人とご先祖様をつなぐのは「心臓の鼓動から発せられる振動(波動)」だ。
それによって他人にではなく、自分の家族(遺族)と結び付く。
だから「心(意識)」の「臓」と書くわけだ。
もし血がつながっていないけど家族だったというケースでも、
家族という絆の意識を持っていた意識時間に比例してご先祖様は自由に繋がれる。
なので、どっか遠くから観察するような感じで見ているわけではない。
愛と愛情の気持ちで、当人の心臓を磁石にして身の回りに「在る」。
【ご先祖様を大切にする】というのは【一族代々の愛と愛情のエネルギーと繋がる】という意味だ。
どれだけ愛と愛情を身にまとえるか?という感じだね。